15.04.22 カテゴリー:35山口県
遅いぞ!武蔵!! 巌流島の決闘 2015.04.22
●関門汽船株式会社のわかば号で巌流島に向かいます。所要時間10分。武蔵や小次郎は何分かかったのでしょうか?
●この船で上陸します。
●島内は公園として整備されています。
●下関市長からの厳しいおふれです。また、別の下関市長からの案内看板によると「慶応3年(1867年)下関に世帯を構えた坂本龍馬とその妻お龍。ある夜、巌流島にこっそりと渡り、花火を打ち上げたと、後年お龍が語った」とか。
●巌流島文学碑、画家古舘充臣氏がえがく、小次郎と武蔵の決闘の場面が焼付けられています。
●佐々本巌流之碑、舟島開鑿(かいさく)工事完成を記念して立てられました。(案内看板より)
●巌流島歴史絵巻より抜粋(武蔵・小次郎像わきに立てられている年表石碑よりタカヤマ抜粋)
慶長17年(1612)宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘。
嘉永 2年(1848)吉田松陰が上陸。小次郎の墓に参る。
明治43年(1910)「佐々木巌流の碑」建立。
昭和48年(1973)島に残っていた老人が島を去り、無人島となる。
昭和62年(1987)島じゅうにかがり火を焚き、アントニオ猪木とマサ斉藤の「夜のデスマッチ」が興行される。
平成15年(2003)巌流島整備事業完工。NHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」放映される。
●像になった2人の決着は永遠につきそうもありません。
●ここちよい遊歩道が整備されています。
●船着場には武蔵の帰りを待つ、伝馬船がありました。
●島中央の広大な「憩いの広場」です。猪木とマサ斉藤のデスマッチのリングは、ここに建てられたのでしょうか?
●関門汽船の観光案内パンフから、巌流島豆知識を
①住所は下関市大字彦島字船島648番地。島の形が舟に似ていることから、正式な名称は「船島/ふなしま」となっています。武蔵に敗れた小次郎の流派「巌流」をとって、巌流島と呼ばれるようになりました。
②決闘が行われた当時の巌流島は、現在の1/6。決闘が行われた当時の巌流島の面積は(わずか17,000㎡その後、明治から大正にかけて埋め立て工事が行われ、現在では当事の約6倍にあたる103,000㎡になりました。
③展望広場にある武蔵VS小次郎像は、小次郎像が2002年12月11日、武蔵像が2003年4月14日に除幕されました。武蔵像の完成が遅れたのは、決闘に遅刻したという史実にあわせてかも・・・。
④現在は無人島になった巌流島ですが、昭和48年までは人が住んでいました。