15.04.26 カテゴリー:34広島県
平和記念公園めぐり。平和と鎮魂を願う慰霊碑をめぐる。世界遺産堪能ツアーVol.2-5 2015.04.26
●原爆供養塔
建立年月日 昭和30年(1955年)8月5日○爆心地に近いこの付近には、被爆後、遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされました。○昭和30年(1955年)広島市が中心となり、老朽化した納骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めました。○内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。○昭和21年(1946年)以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれています。
●原爆の子の像
建立年月日 昭和33年(1958年)5月5日(こどもの日)○2歳の時被爆し、10年後に白血病を発病して亡くなった佐々木禎子さん。その死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、全国3,100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、完成したのが、高さ9メートルのこのブロンズ像です。
○像の下におかれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。
○像の制作は、当時東京芸術大学教授だった菊地一雄さん。塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士が寄贈した古代の銅鐸を模した鐘と金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。(現在この鐘と鶴は、広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています。)
●動員学徒慰霊塔
建立年月日 昭和42年(1967年)7月15日○昭和19年(1944年)8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。○広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の生徒約8,400人のうち、約6,300人が犠牲となりました。
○戦後、政府は、原爆や空襲などで亡くなった動員学徒のうち、氏名・死亡日等の判明した者に限り靖国神社への合祀(一つの神社に一緒にして祭ること)を認めました。この塔は、それを受け、名簿作成運動を始めた遺族による募金によって建てられたものです。
●中国四国土木出張所職員殉職碑
被爆当時、内務省中国・四国土木出張所は広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)の中にあり、原爆の直撃を受け、52名が殉職しました。
○碑の表には「原爆のいけにへとなりし人々は なごみゆく世の いしずえにして」 と当時の所長阿部一郎氏の弔歌が刻まれています。
●相生橋
旧相生橋は、昭和20年8月の原子爆弾投下の目標となった橋です。
●相生橋
旧相生橋は、昭和20年8月の原子爆弾投下の目標となった橋です。
○この原子爆弾の爆発により、相生橋は、強い爆風を受け、その爆圧は、通常橋にかかる荷重の15倍に当りました。このような瞬間的に強い爆圧を受けた相生橋は、板バネのように大きく曲り、又跳ね返るような動きを繰り返し、同時にコンクリート床版は、宙に浮き上がりました。○幸い落橋を免れましたので修理して被爆後、約35年間私用されてきましたが、老朽化のため、昭和58年10月に現在の橋に架け替えられました。○昭和58年10月建設省広島国道工事事務所
現在の相生橋