15.10.04 カテゴリー:07福島県
おおきなお世話旅 東北vol.2 福島 3 2015.10.04(日)
本日も晴天です。今日は、お墓参りから始めます。
★白虎隊十九士の墓
あまりにも有名な白虎隊です。
自刃して命を絶えた19名と奇跡的に蘇生して、
白虎隊の忠義と悲運の物語を語り継いだ「飯沼貞吉」さんの
墓標に訪れます。
戸の口原合戦場から退却した、20名の白虎隊は、
この「戸の口洞窟」を経て「飯盛山」にたどり着いたそうです。
「飯盛山」のこの地からは、
会津若松の市街が一望できます。
ここから鶴ヶ城を臨み、炎と煙を見た白虎隊は
「城は陥落した。今は主君のために殉じよう」と、
城に戻ることを選ばず、この地で互いに自刃したのだそうです。
彼らの遺体は、政府軍により埋葬が許されませんでした。
しかし、戦争終結3か月後に、
村人が密かに寺に運び仮埋葬。
その後、この地に埋葬されたそうです。
刀傷を受けながら、村人の献身的な介抱を受け、
蘇生した「飯沼貞吉」さんは、天寿を全うし、
今では、他の同士と同じこの飯盛山で眠られていました。
★松平家墓所
続いて訪問したお墓は、
会津藩主松平家のお墓です。
会津若松市南東の東山温泉口入り口の
「院内山」にありました。
初代藩主は,猪苗代町の見禰山にお墓があり、
ここにお墓があるのは二代目から
九代目の「容保」公までだそうです。
通称「院内御廟」と呼ばれる、
杉の巨木に包まれた石段を登ります。
これは、二代目「保科正経」公のお墓。
三代目から九代目までの、「入峰墓所」と呼ばれる、
広い敷地から少し離れたところにありました。
ここが「入峰墓所」
ガメラを連想させる亀形石がお墓を守ります。
その上にはお経が刻まれた碑石があります。
一段高い場所に灯篭が対に並び、
その奥に表石、さらに奥に小高い墳丘を造り
その上に八角形石組の墓石が置かれています。
お目当ての九代「容保」公のお墓は、
形式は歴代藩主と同じですが、
一回り小ぶりで、真新しいものでした。
明治26年(1893)に亡くなられたお殿様は、
いったん東京に埋葬されます。
大正6年(1917)に、ここに眠られることになったそうです。
それが小ぶりで、真新しい墓標の理由なのでしょうか。
最後まで、悲運のお殿様です。
容保公のお墓の奥に、「松平家の墓」がありました。
容保公の義姉、悲運の御姫様「照姫」さまも、
大正6年に、この「松平家のお墓」に入ることが出来た
と案内板にありました。
★会津武家屋敷
戊辰戦争時代の家老「西郷頼母」さんのお屋敷を中心に、
江戸時代の武家屋敷を移築、展示する施設です。
頼母さんのお屋敷は、御殿のように大きいですが、
造りは質素で、きらびやかさはありません。
西郷頼母さんの一族(総勢21人)が自刃したお部屋は、
人形で再現されていました。
傷が浅く、絶命できなかった娘さんが、
新政府軍兵士に介錯を求めている場面です。
お屋敷の入り口には、西郷家に養子に入り、
「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四朗」さんが
「山嵐」を決めている場面の像がありました。
★会津藩校「日新館」
「ならぬことなならぬものです」
「白虎隊の学び舎」です。
江戸時代に高い教育水準を誇った
「日新館」です。
10歳以上の入学者が最初に学ぶ「素読所」には
白虎隊士中二番隊の20人になぞらえた人形が、
学習する様子を伝えていました。
古式泳法や甲冑をつけての水中移動などを学ぶ
日本最初のプール「水練場」です。
「天文台」があり、天体観測をすることで、
「会津暦」を作成していたそうです。
会津若松市の街並み、
磐梯山が一望できました。